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遠賀川の歴史

 遠賀川流域の私たちの暮らしの中には、人類が現れる以前からの地形・地質の特性があり、数千年にわたって便利で住みやすい故郷を創ろうとしてきた先人たちの工夫の跡があります。
 第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO1

遠賀川はなぜ「オンガ」なのでしょうか。

今から6千年の昔、地球全体が温かく、日本付近の海面は現在よりも5〜6m高くなっていました。福岡北部では、海が大きく陸に入り込み、いくつもの内湾ができました。その後、地球が寒冷化すると、海岸線は次第に後退していきます。また、川の運ぶ土砂によって、海は埋められていきます。特に河口に砂丘が発達する河川では内湾が広大な潟湖になり、やがて干潟に変わっていきます。

このような過去を持つ土地は、日本海側の大河川におおくみられます。そこにはある共通点があります。干潟の「カタ」にちなんだ地名です。県外では象潟(キサカタ・秋田県)酒田(サカタ・山形県)高田(タカタ・新潟県)などがあり、福岡県では、博多や宗像、苅田の地名があります。

遠賀川にも「カタ」の地名が、712年に編纂された古事記の中にありました。神武東征の途中で遠賀川河口に立ち寄る所で「竺紫の岡田宮に一年坐しき」としているのです。
遠賀川河口は、神話時代の国内最大規模の干潟であり、漁労採集や土器文化の中心地でした。その特殊な土地を「大きな干潟=オオカタ」と呼び、やがて、「オカダ」「オカ」「オカガ」「オンガ」と変化していったのでしょう。
遠賀の語源は「大きな干潟」
西日本新聞ふるさと散歩道(2005年)松木洋忠元遠賀川河川事務所長の記事を抜粋して掲載。

 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO2

約2万年前、氷河期の時代には、現在よりも気温が年平均で7〜8℃低くなり、海の水面は現在よりも140m前後も低くなっていたようです。当時の遠賀川は、対馬海峡に注ぐ約400mの大河川で上流域にあたる現在の遠賀川は深い大峡谷でした。
遠賀川流域に広く分布する石炭は、今から約7500万年前の第三紀という時代に造られました。 当時は湖や湿地の多い土地が広がり、メタセコイアという木がそのくぼ地に倒れ積み上げられ、その後、深く埋もれて筑豊の石炭ができました。

 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川トクとく情報
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO3

私達の先祖は現在絶滅した中国大陸の北にいた動物(アウマンゾウ・オオツノジカ・ヤギュウ)たちと一緒に、遠賀川にもやってきたと考えられています。この時代は、土器がまだ使用されておらず、打ち欠いた石器を主に用いていたので旧石器時代...あるいは、先土器時代と呼ばれていました。
北九州市八幡西区辻田遺跡では、古い地層から、動物を解体したり、皮をはいだりする時に用いた古い石器である切り出しナイフが見つかっています。
また、北九州市若松区椎木山遺跡(A)では、約2万年前の2軒の家の跡が見つかり話題となりました。
今から約13000年前に地球がやっと暖かくなり、氷河がとけてその水で海面が高くなり、日本列島は大陸から離れて今の姿になりました。
12000年前からは、縄目の模様などで表面が飾られた縄文土器が使用されたので、この時代を縄文時代と呼びます。
木の実や、魚・貝類、動物など煮て食べるために土器は大変役立ちました。(もっと知りたい遠賀川より)

 

16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO4

最初の人々の足跡 旧石器時代

縄文時代(今から約12000年前)、人々は木の実や、魚・貝類、動物などを煮て食べるために土器が役立ちました。食べた残りの殻や骨を捨てた貝塚が作られました。
氷河時期が終わり気候が温かくなると海の水面が上がり、山野にはブナやナラなどの落葉広...葉樹から、クスやシイなどが増えてきました。海の水面は現在よりも上がり、遠賀川流域に「古遠賀湾」と呼ばれる複雑に入り込んだ海岸線と浅い湾が生まれました。その様子を語ってくれるのは貝塚です。貝塚は縄文人のゴミ捨て場ですが、それを発掘することで当時の自然環境や人々の食文化を知ることができます。最も奥の貝塚は現在の遠賀川の河口から約15㎞上流の直方市下新入にある天神橋貝塚です。当時は直方まで海が入り込んでいました。

 

第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO5

天神橋貝塚は犬鳴川が遠賀川に合流する所にあり、シジミ、カキ、アカガイに交じって、縄文土器や磨製石斧・貝輪・垂飾・ヘアピン・黒曜石・植物種子が発見されました。
楠橋貝塚は北九州市八幡西区にあり、当時、古遠賀湾の東側にあたります。寿命貝...塚は楠橋貝塚の西方360m地点にあり、石で囲った炉跡を中心に7本の柱がある円形の住居跡が発見されています約4000年前の縄文土器とサルボウ・ハマグリ・マガキ・マシジミが発見されています。
新延貝塚は鞍手町新延にあり、当時、古遠賀湾の西側の最も奥にあたります。

 
 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO6
遠賀川から洞海湾に抜ける小さな川、江川(大渡川)が流れています。この川はかって遠賀川の(本流)の一部でした。
遠賀川の運ぶ土砂は、芦屋から玄界灘に出てから浅い沿岸域を漂います。そして、季節風に吹き寄せられて砂丘が発達します。しかし、砂...丘が大きくなりすぎると、遠賀川の河口をふさごうとします。現在では、導流提などによって河口が狭くなるのを防いでいますが、古代から中世にかけて遠賀川の河口は、狭くなったり、時には閉まったり、また、大洪水で大きく開いたりしていました。
川の河口が狭くなると、河口の水位は海面より高くなりますが、その時、水はけ口となったのが江川です。
川を流れる水は洞海湾を経てひびき灘に注ぎます。そのおかげで江川の川筋が長く維持されてきました。遠賀川が流れてこなかったら山の狭間の江川は砂で埋まっていたでしょう。なお、洞海湾とは、「くきのうみ」とも読みますが「くき」とは水を通す狭いところという意味です。本来、洞海は、江川のことを指した地名です。
(西日本新聞ふるさと散歩道(2005年)の記事を抜粋して掲載)
 
 

第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO7
川島殿ケ浦遺跡(飯塚市)は約4000万年前に瀬戸内海方面の土器の影響を受けた土器が見られ、九州の縄文文化と瀬戸内海地方の縄文文化が交流した様子が分かります。こうした川底の遺跡は水面から約6〜7mの地点から土器や石器が発見されています...。これらは磨られたり、角が取れたりしていないので、上流から流れたものではなく、本来、川の近くの自然堤防上にあった遺跡が遠賀川上流から運ばれてきた土砂の堆積により、川底深く埋もれたものと考えられます。遠賀川は深い谷底を流れていたことになり、平野は現在より狭かったと思われます。

 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO8
縄文時代の貝塚は、古遠賀湾周辺に広く分布しますが、弥生時代の貝塚は、なぜか中間市と水巻町に集中しています。人々は、ここでだけ、貝殻を捨て続けたのです。
縄文時代の内湾は、海面が下がるにつれ陸地化していきましたが、陸地になりやすい場...所があります。一つは、川の流れこむ場所です。川は、海に入って流れが弱くなると、運んできた土砂をその近くに置いていくのです。もう一つは、浅い海の風下です。推進10mくらいまでの海底では、砂が行ったり来たりしながら風による波の方向に寄せられていきます。古遠賀湾は次第に小さくなり、遠賀川に埋められながら、冬の季節風の吹き付ける南東側から陸地化していきました。海水面が現在の高さになった弥生時代には、中間市から水巻町にかけて広大な砂浜となりました。ここに弥生時代の貝塚があります。(現在の標高5m線上に貝塚があります。)
 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO9

弥生時代の人々は、水田の水を引きやすい所に集落を造ります。洪水の心配のない小河川の流域が最も安全な場所ですが、遠賀干潟に近い微高地にも集落を造りました。低湿地では、真水でお米を育てつつ、近くの砂浜で貝や魚を捕る生活を送っていました。先...ごろ発掘された木屋瀬田遺跡の自然流路と土器、石器、木器、そしてもみ跡もそのような生活を伝えているのでしょう。
遠賀川下流は、遠賀川式土器に代表される、弥生文化の幕が開いたところです。ここでの半農半漁の生活スタイルが土器とともに全国に伝わっていきました。「魚」の訓読みが「すなどり」とされるのも、当時のこの地の漁法に由来するのかもしれません。
(西日本新聞ふるさと散歩道より)

 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO10
遠賀川式土器は1931(昭和6)年に遠賀川下流の水巻町立屋敷遺跡の川底から、アマチュアの考古学者、名和洋一郎氏によって発見されました。壺の肩のところに貝殻やヘラによって羽状文など美しい幾何学模様を描いています。
 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO11
1931(昭和6)年に遠賀川下流の遠賀郡水巻町立屋敷遺跡の川底から発見された、模様のある土器に注目し、この有文の弥生土器と、北部九州に多い模様のない無文の弥生土器とは別系統と考えられていました。その後調査が進み、有文の弥生土器が西日本に広く分布していることから無文の弥生土器よりもはるかに古いことを発見し、これらの有文の土器を遠賀川式土器と名付け、弥生土器の中で最古のものとしました。そのため、弥生文化が伝播する様子を明らかにする上で重要な指標となります。
その後、田川市の下伊田遺跡の土器、飯塚市の東菰田の土器が発見されました。
遠賀川式土器の次の土器は、「城ノ越式土器」で遠賀郡遠賀町の城ノ越貝塚から見つかりました。このように遠賀川流域の弥生時代の遺跡は日本の古代史を研究する上で重要な役割を果たした地域です。

 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO12
4世紀に入ると、東北地方南部から九州に至るまで広大な地域に、前方後円墳を外形とし、長さ数メートルにも及ぶ割竹形木棺の埋葬施設、三角縁神獣鏡を主に豊富な副装品を持つ古墳が出現しました。今まで各地で異なっていた墓の形が急に同じ形になったのは、同じ形の祖先の祭りを行う取り決めが、ヤマトの王と各地の王との間にできました。これは古墳という墓づくりを通して、ヤマトの王を頂点に全国的な規模で結ばれた王の連合が成立しました。
 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川...
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO13

古墳・・・馬を育てる文化伝え(1)

遠賀川は江戸時代の初めまで御牧川と呼ばれていました。馬の牧場が多かったからとされています。なぜ遠賀川で牧場なのでしょうか。
古墳時代には、遠賀川流域では下流から上流まで多くの古墳が造られました。中でも島津丸山古墳(遠賀町)、沖出古墳(嘉麻市)、位登古墳(田川市)などは、石塚山古墳(苅田町)とともに3〜4世紀の最も古い時代の前方後円墳とされています。古墳時代には北部九州が一つの文化的な中心地であったことが分かります。
ところが古墳時代後期の6世紀になると、古墳が上流域に集まります。馬具などの馬にまつわる副葬品も出土します。猫迫一号墳(田川市)の馬の埴輪は国内最古級とされていますし、目尾釜跡(飯塚市)の写実性には驚かされます。古墳時代後期には馬を育てる文化が伝わり、遠賀川上流部に根づいたのでしょう。

では、何のための馬か、それは朝鮮半島へ送り出すためです。
(西日本新聞ふるさと散歩より)

 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO14

古墳・・・馬を育てる文化伝え(2)

6世紀以降、大和政権は百済と盛んに交流しており、仏像や経典が伝わる代わりに、兵、馬、舟を盛んに百済に送っていました。朝鮮半島に近い遠賀川流域は、馬や舟の主要な生産地だったに違いありません。その様子を今に伝えるのが竹原古墳(宮若市)の装飾壁画です。壁画には、馬を引いた人物と舟、波などがあざやかに描かれています。その意味は、様々に解釈されていますが、時代背景を考えれば「多くの馬を船に乗せて朝鮮半島に送り出す有力氏族の長」をたたえるものと思われます。
古墳時代の遠賀川は、馬の生産地でした。その流れが御牧川の古名であり、現在の御牧大橋(水巻町ー遠賀町)の名に残されているのです。
 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO15

烽火 急を告げる軍事通信
烏尾峠のすぐ北に日王山があり「日の屋根の山」とも書きます。九州の「ヒ」や「ホ」がつく山には古代の烽火伝説が多く、日王山の山頂にも烽火台が再現されています。
古代の倭国には、防衛上の緊急事態がありました。663年の白村江の戦いです。滅亡した百済を再興すべき、大和政権が朝鮮半島に軍を送ったのですが、大敗し、逆に唐、新羅が攻めてくるかもしれないという存亡の危機に直面したのです。慌てた大和政権は、防人と烽火を置き、水城・大野城、長門城を築いて国防を固めたと日本書記は伝えています。であれば、烽火は、水城・大野城まで敵が攻めてきたときに、長門城や大和に通ずる瀬戸内海まで急を告げる軍事通信です。その伝達ルートは、制海権を失った玄海灘を避けなければなりません。火や煙が見える範囲でつながる高い山を選んで烽火台を造る必要があります。遠賀川上流域の中心に位置する日王山が重要になります。...
 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO16

烽火 急を告げる軍事通信(2)
  遠賀川周辺の地形で烽火通信のルートを最短距離で設計すれば、日王山を経由することになるのです。日王山は流域のほぼ中央に位置し、西の三郡山からおよそ20㌔東の大坂山から12㌔、双方への見通しがよく利きます。こうして日王山を使うことで、ルートが完成するのです。古代の烽火は残っていませんがそれぞれの山には朝鮮式山城ともいわれる古代の神籠石遺跡があります。三郡山の大野城、日王山の鹿毛馬、大坂山の御所ケ谷。烽火台を守る拠点として防人が配置されていたのでしょう。
 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO17

馬の道 瀬戸内海までの情報伝達烽火 急を告げる軍事通信

玄海灘から上陸してきた「唐軍来襲」の第一報は、烽火信号で、水城・大野城から瀬戸内海に達し、長門城や大和・近江へ伝えられます。しかし、烽火通信では、敵軍の規模や装備など詳しい情報の伝達はできません。情報を運ぶためには防人の伝令が必要になります。伝令は、当時の最も早い陸上移動手段であり遠賀川流域に放牧されていた馬が使われました。大野城を出発した伝令は、一刻も早く日王山と大坂山の烽火台に情報を伝えつつ、瀬戸内海を目指します。早馬が短時間で駆けるけるためには、なるべく低い峠を抜けながら、大きな川や湿地帯を避けたルートが選ばれました。これが烽火通信を追いかける「馬の道」です。
 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO18

水木・大野城を発した「馬の道」は三郡山を南から迂回する米ノ山峠を超えます。そこから山口川、穂波川を駆け下って嘉麻川を渡り、日王山の鹿毛馬峠に至ります。さらに中元寺川、彦山川を渡って金辺川を上り、大坂山の七曲峠と高城山の京都峠を抜けて、殿川河口から船に乗り継ぎます。それぞれの峠は、現在も幹線道路として利用されています。ルート上には馬の地名が多くあります。重要情報を運ぶ伝令が「馬の道」を駆け通せば、水城・大野城から瀬戸内海まで最短でおよそ4時間です。その間に伝令の乗る船を整えておかなければなりません。烽火通信の伝えた情報で重要なのは、「敵襲」よりも、もっと単純な「出港準備」の命令であったかもしれませ
 
第16回九州「川」のワークショップin遠賀川
トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO19
神籠石・・・日本最初の「道の駅」」

飯塚市頴田にある鹿毛馬の鹿神石は、1800個の花崗岩の切り石を並べた、周囲約2㌔の石の輪で、古代の山城とされています。他に比べて標高も低く面積も狭いため、籠城に備えるような機能があったとは考えられません。なぜ、この地でこのような土木事業が行われたのでしょうか。
「馬の道」を幹線道路としてみれば、鹿毛馬にはもう一つの役割があったと考えられます。中継施設としての機能です。水城・大野城から殿川湊までの約60㌔、伝令が一頭の馬で走り切るには遠すぎます。また、伝令にも休息が必要です。中間点にある鹿毛馬は、馬をお交換する場所であり、トイレであり、水飲み場だったのです。今でいう「道の駅」にあたります。
実は白村江の敗戦の後、倭国はにわかに国号を「日本」に改めています。その新生日本が最優先に整備したのが、本土決戦のための城であり、烽火通信であり、「馬の道」でした。「馬の道」の休憩施設として築造された鹿毛馬の神籠石は、実は日本最初の「道の駅」だったのです。

 
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トクとく情報「遠賀川の今・昔」NO20
6世紀の終わりごろ、日本最初の仏教寺院「飛鳥寺」奈良県に造られました。支配者が人々に権威をしめす築造物が古墳から寺院へ変化し、飛鳥地方に出現した仏教文化が全国に広がりました。遠賀川流域に寺院が造られたのは、7世紀末で上流の嘉穂地方には大分廃寺や田川地方の天台寺(上伊田廃寺)が建立されました。共に朝鮮半島の新羅系瓦が使われています。